思うところあって

思うところあって
本日より
電脳行乞す


人には物乞いをする権利がある、と「シャドウワーク」イリイチが書いていたと思いますが、ラマナ・マハルシ師の「不滅の意識」を読み、そうだ、俺も乞食をしていいのだと、改めて思い、ここに物乞いを始めようと思います。


わたしという存在に何らかの価値があるとお感じになられたら、下記の口座にいくらかでもお振込みください。


この世界の、そしてこの世界に生きるすべての存在の、心のやすらぎをお祈りします。


三菱東京UFJ銀行 六本木支店 普通口座 4897955 ナガノトシオ


なお、このページで紹介している本のリンクからアマゾンで商品を購入していただいた場合もその代金の3%がわたしという乞食の電脳鉄鉢に入ることになります。

あらかじめながら重ね重ねお礼申し上げます。


鉄鉢の中にも霰 -- 種田山頭火

詩は友人を数える方法 - 長田弘

たとえば、霧だ。
濃い霧が道をすっぽりと覆っていた。海沿いの道だった。海からのつよい風が車に殴りかかって、目のまえの霧を一瞬さっと吹き飛ばすと、黒い海がそこにひろがっていた。海にかぶさるように、灰色の雲が幾重にもかさなって、低く激しく動いていた。港の入口の灯台の赤い灯がさっと閃いて、旋ってゆく。白い波がしらがまっすぐ一列にすすんできて、港の防波堤で、叫び声のように、一どに真っ白な水沫をあげた。

--- 長田弘「詩は友人を数える方法」より

(こんな質感のある文章をいつか書いてみたいと思う)

人は〈いま生きているという経験〉を求めている (ジョーゼフ・キャンベル)

人々はよく、われわれは生きることの意味を探っていると言いますが、人間がほんとうに探求しているのは、たぶん生命の意味ではありません。人間がほんとうに求めているのは、〈いま生きているという経験〉だと思います。純粋に物理的な次元における生活体験が、自己のもっとも内面的な存在ないし実体に共鳴をもたらすことによって、生きている無上の喜びを実感する。それを求めているのです。

--- ジョーゼフ・キャンベルの言葉、「神話の力」より

一歩一歩、前へ

みなさん、お久しぶりです。今ラオスビエンチャンにいます。
静かで心地よい下町の安宿に泊まって、何をしているかというと……。
もっぱらネット遊びです。


ひと月ほど前にバイクでこけて、そのとき怪我した右足がまだ本調子でないという事情はあるにしても、もう少し別にやることがあるんじゃないか。そんなことを思ったりしつつも、宿のwifiがただで使えるのをいいことに、だらだらとネット遊びをしているのです。


自分は本当のところ何をしたいのか、そしてこれから何をすることになるのか、そこのところは相変わらず分りません。分らないながらもいい加減に高みを目指すということに関しては前にも書いた通りです。


プロセスワーク関係で知り合った友だちが「小さな一歩を、確かめながら、自分で進めていくよ」と書いていました。ぼくもそういうふうに生きたいと思います。


カスタネダ「呪術師と私」にはこうあります。

わしにとっては心のある道を旅することだけしかない。 どんな道にせよ心のある道をだ。そこをわしは旅する、 そしてその端までたどりつくのが唯一価値あることなのだ。

ぼくも心ある道を、一歩一歩前へ進んでいこうと思います。

なんで生まれてきたんだろう

部屋がなかなか片付きません。


去る五月に日本を発ち、五、六年は異国暮らしをと思っていたのですが、諸般の事情で一時帰国中、東京世田谷にある実家の一間(ひとま)に居候しているのです。


実家に預けていたものを少々取り出し、旅行に持っていったけど、もう必要のないものは実家に預けるという具合にして、三日後の出国に向けて荷造りをすればいいだけの話ですが、これがなかなか進みません。


自分で選んだ人生ですが、よし、これで行くぞ、というような確信からはほど遠く、まあ、多分なんとかなるよ、といった弱気ながらも適当な楽観主義で生きていると、荷物の整理のような必要だけれどわずらわしい作業はついつい後回しにしてしまう。どうもそんな感じです。


自分は一体なにがしたいのかとか、何のために生まれてきたのかとか、そんな埒もないことを薄ぼんやりと考えたりするのは結構すきだったりするのですが、その辺りのことと部屋片付けという現実との距離はどうにも遠くて幾千億光年、今はその隔たりをゆっくり埋めているわけにもいかないので、論理や心理のつながりなどはばっさりと切り捨て、ぼくはこの部屋を片付けるために生まれてきたんだ、とでも思うことにして、三日後この部屋がきれいに片付いている様子を想い描いてみることにします。


さ、ぐだぐだ言ってるのもこのくらいにして、ぼちぼち片付けようっと。


[今日の一冊]
穂村 弘「絶叫委員会」、筑摩書房、2010年


「絶叫委員会」という一風変わった題名に惹かれ手に取ってみたところ、前に雑誌でインタビューを読んで面白そうな人だなと思っていた歌人穂村弘の本でした。
街で見聞きした詩的な言葉を独特の感性でつづるエッセイ集ですが、冒頭、穂村の友人である伴風花という人の短歌が紹介されています。
伴さんは塾の先生をしていて、ある時教え子が剣道の試合のあとに突然なくなってしまいます。そのことをお母さんが伝えに来た場面なのでしょう、

「俺の靴どこ」が最後の言葉ってお母さんは折れそうに笑って

この「俺の靴どこ」という、普通ならどうということもないはずの言葉が、この文脈で持つ圧倒的な重さを穂村は拾い上げるわけですが、うーん、カスタネダ的で仏教的でメメント・モリです。


ぼくたちが一瞬一瞬死に向かって歩く存在であることを思い出させてくれて、伴さん、穂村さん、ありがとうございます。

肯定的に生きる

物事を否定的に受け止めてしまうクセがあります。
損なクセだと思っています。


人に対しては、あなたの言ってることは違うよ、と思い、自分に対しては、こんなことをしてもどうせダメだよ、と思う。


そこのところをどうにか変えていって、あなたの言うことにも一理あるねと素直に思い、これをやって今はできないかもしれないけど、いい経験になるよと、積極的に評価し、できるだけ多くのことを肯定的に受け止めていきたいのです。


ついついあれこれ否定的に考えちゃう、そんな自分のことも、まあ、そういうこともあるさと、さらっと流しつつ受け止めて。


人生所詮一度きり、どうせなら肯定的に生きたいじゃないですか。


[今日の一冊]
エーリッヒ・ショルイマン
「パパラギ―はじめて文明を見た南海の酋長ツイアビの演説集」
岡崎照男訳、立風書房、1981年


太平洋の島で昔ながらの素朴な暮らしをしている酋長の目を通して、工業化された文明社会の悲哀を描くこの本は、ドイツの画家によるフィクションだという話もありますが、その文明批判はある種ユーモラスでもあり、初めて読んだとき高校生だったぼくには、とても小気味良く響きました。


物が溢れ返る今という時代に、なんらかの違和感をもっている人には、考えるヒントを与えてくれる本だと思います。

ふりだしに戻ることの積極的意味

旅行の目的は出発点に戻ってくることにある。


村上春樹「夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです」におよそこの意味の言葉があります。
ふりだしに戻ることはスゴロク的に言って悪いことだと思い込んでいたので、この言葉がとても新鮮に響きました。
永遠の今、無限のここに、これからも何度でも戻ってこようと思います。