なんで生まれてきたんだろう

部屋がなかなか片付きません。


去る五月に日本を発ち、五、六年は異国暮らしをと思っていたのですが、諸般の事情で一時帰国中、東京世田谷にある実家の一間(ひとま)に居候しているのです。


実家に預けていたものを少々取り出し、旅行に持っていったけど、もう必要のないものは実家に預けるという具合にして、三日後の出国に向けて荷造りをすればいいだけの話ですが、これがなかなか進みません。


自分で選んだ人生ですが、よし、これで行くぞ、というような確信からはほど遠く、まあ、多分なんとかなるよ、といった弱気ながらも適当な楽観主義で生きていると、荷物の整理のような必要だけれどわずらわしい作業はついつい後回しにしてしまう。どうもそんな感じです。


自分は一体なにがしたいのかとか、何のために生まれてきたのかとか、そんな埒もないことを薄ぼんやりと考えたりするのは結構すきだったりするのですが、その辺りのことと部屋片付けという現実との距離はどうにも遠くて幾千億光年、今はその隔たりをゆっくり埋めているわけにもいかないので、論理や心理のつながりなどはばっさりと切り捨て、ぼくはこの部屋を片付けるために生まれてきたんだ、とでも思うことにして、三日後この部屋がきれいに片付いている様子を想い描いてみることにします。


さ、ぐだぐだ言ってるのもこのくらいにして、ぼちぼち片付けようっと。


[今日の一冊]
穂村 弘「絶叫委員会」、筑摩書房、2010年


「絶叫委員会」という一風変わった題名に惹かれ手に取ってみたところ、前に雑誌でインタビューを読んで面白そうな人だなと思っていた歌人穂村弘の本でした。
街で見聞きした詩的な言葉を独特の感性でつづるエッセイ集ですが、冒頭、穂村の友人である伴風花という人の短歌が紹介されています。
伴さんは塾の先生をしていて、ある時教え子が剣道の試合のあとに突然なくなってしまいます。そのことをお母さんが伝えに来た場面なのでしょう、

「俺の靴どこ」が最後の言葉ってお母さんは折れそうに笑って

この「俺の靴どこ」という、普通ならどうということもないはずの言葉が、この文脈で持つ圧倒的な重さを穂村は拾い上げるわけですが、うーん、カスタネダ的で仏教的でメメント・モリです。


ぼくたちが一瞬一瞬死に向かって歩く存在であることを思い出させてくれて、伴さん、穂村さん、ありがとうございます。