カルマ落とし

前の記事を読んだ友だちから、「震災で困っている人がたくさんいる中で、あなたのように自分で稼ぐ能力のある人が、あのような自己本位の物乞いをするのはどういうことなのか」という意見をいただいた。
ぼくは、かなり社会性にかける人間なので、そのような問題との関連はまったく想像もしていず、その点では自分の迂闊さを反省している。
また、軽犯罪法1条22号で、乞食すなわち物乞いをしたりさせたりすることが禁止されているということも合わせて指摘していただき、まったく知らなかったので勉強になった。
この友だちには大変申し訳ないと思うと同時に大変感謝している。


また、前の記事を見て、同様の不快を感じられた方には素直に謝らせていただく。


そうはいっても。
震災があろうと、法律があろうと、物乞いをしてよいのだというぼくの考えは基本的に変わらない。種田山頭火だって、形は坊さんでも、結局物乞いの酒飲みに過ぎず、しかし、そういう人生を送ったからこそ、彼の俳句はあるのだ。


ぼくには俳句はないけれど、このページに書いている言葉には何らかの価値があるかもしれない。それに対して誰かが何かをくださる気持ちになってくれたならば、そのときそこには震災も法律も関係ない。
路上で暮らす人が、法律で禁じられているから、物乞いを自らすることはできなくても、その人という存在に価値を感じて誰かが何かを与えるなら、それは法律で取り締まれる類のものではない。


そういうわけで、前の記事の「物乞い」という言葉はあくまで例えにすぎないので、働かないけれど金をくれ、と言っているわけではなくて、そこに書いたことの実質は
「このページに書かれている言葉に何らかの価値を見出された方は、ご寄付を検討下さい」
ということである。


そんなに簡単に寄付がもらえると思っているわけではもちろんないし、その表現の中に甘ったれた気持ちがあることも分っている。
けれど、その甘ったれた気持ちも含めて、自分をさらけ出すことが今のぼくには必要だから、前の記事を書いた。
過去に背負った業(カルマ)を少しずつ落としていくために……。


そんなことなんです。